第1回「不幸感情盛り上げ隊」
2023年12月26日(火)18:39
◆「不幸感情盛上げ隊」(通称:盛上げ隊)とは?
私四ツ橋まりもの”精神の”中にいる、
私が「失敗」、「恥」や「後悔」を感じる出来事に遭遇したときに、
あれこれと罵声を浴びせて、それらの感情を強くしたり、「自責の念」や「無力感」を煽る(”盛り上げる”)…
そんな「集団」のことをそう呼ぶことにしました。
◆盛上げ隊が嫌いなものは、「成長」「成功」そして「幸せ」
通常、人は上記のような、失敗や恥、後悔を感じたときには、そうなった問題を解決するために新たに行動を起こしたり、次に活かすために努力をするものですが、
「私が全部悪いんだ…」という自責の念や、「私は何をやってもダメなんだ…」という無力感にとらわれてしまうと、他人に丸投げしたり、諦めたり…とにかくそれをやめてしまいます。
ぶっちゃけてしまうと「盛上げ隊」は、私を「不幸な人間」にしたいと考えています。
だからその正反対である、「幸せ」は天敵となります。
でも幸せ、とは何なのでしょうか。それは人によって違うかもしれません。
ひとまずここでは、幸せは「成功」の上に成り立つと仮定します。
そして、その成功は、「成長」の積み重ねであると。
そう考えると、私が「成長」をやめると、幸せになることは決してないことになります。
だから、盛上げ隊は私に自責や無力感を与えることで、目標を諦めさせ、成長の機会を奪おうとしているのです。
◆盛上げ隊は、「可哀想な人間」になってほしい?
少し話が変わるのですが、物心ついた頃から私は「可哀想な」状態にある人が「羨ましい」と思っていました。
例えば、風邪をひいて、看病してもらっているきょうだいを見て、「私が風邪をひいたらよかったのに…」とか思うのですが、自分はめったに風邪を引かない。だから羨ましい、という具合です。
もちろん、建前上は「大変だね」「早く良くなってね」ということはできますが。内心は、羨ましくてたまらない。そんな子供でした。
どんなところが羨ましいのかと突き詰めれば、「同情してもらえる」ところ。誰かが「味方になってくれる」ところ。そして、「特別扱いされる」ところかと思います。
そして、自分に不運なことが起きて、「かわいそう…」と言われたときに、自分が存在を認められたような気がしたんですよね。
下手をすると「大好き」と言われるよりもずっとに自分を肯定された気がしたかもしれない。それくらい、強い価値のある言葉に思えました。
おそらく、私は他人に特別扱いされたいという気持ちと、同情されたいという気持ちと、自分の味方になってほしいという気持ちを異常なくらい強く持っていたのだと思います。
友だちや味方がいれば嬉しいのは確かだし、「同情されたい」は、「共感されたい」だったらそこまで異常性はない気がしますが、どこかでゆがんでしまったのかもしれません。
◆「可哀想」と思われることのメリット
異常に執着している「同情」と「味方」そして「特別扱い」を得たいという気持ち。
もちろん、普通に生きていても、自分の気持ちをわかってもらったり、味方ができるものです。
なにかすごい功績を上げれば、特別に見てもらうこともあるでしょう。
でも、わかってもらうには状況と気持ちを正確に説明しなければ誤解を受けることもあるし、仲の良い友だちを作るには、コミュニケーションの積み重ねが必要です。私はそれが不得意でした。
それに、なにかすごい功績を上げたときには、褒めてくれる人もいる一方で、羨ましがられることもあります。私は自分が羨ましい気持ちが強いくせに、何故か、他人に羨ましいと思われるのはものすごく不快だったのです。(無意識に、私がいちばん可哀想なのに、と思っていたのかもしれません)
そんな私にとって、可哀想な自分になることは、「かわいそう!」と思われればそれらをすべて“瞬時に”得られる…というメリットがあったのです。
口下手で何も説明しなくても、相手がそう思ってくれればいいわけです。 とても楽に、承認を得ることができるのです。
「可哀想でいると、他人が助けてくれる。世話を焼いてくれる。
特別扱いもしてくれるし、注目もしてくれる。」
どこかでそのような「メリット」を学習したのかと思います。
だから、「私は可哀想な人間であるべきだ」。
その歪んだ思い込みによって、不幸感情盛上げ隊は私の中で生き続けています。
◆ところがそれには罠がある
可哀想な人間になると、同情、味方、特別扱いを”瞬時に”得られる、というメリットを説明しましたが、
そうやって得られる他人からの承認は、まさに一瞬で終わってしまいます。
そうするとどうするのかというと、より可哀想になるための不幸を自分で求めていかなければならなくなるのです。
でもそんなに知恵もエネルギーもないので、例えば他人の世話を全部率先してやってしまう可愛そうな私…みたいな活動的なことはできません。
そこで、なにか失敗をしたら、「私はダメなやつなんだ」と思って何もやらないでいることで、緩やかに「成長」を止めていくのです。
そんなことをやっていると、起きた不幸も突き詰めると「自分が努力しなかっただけ」という、自業自得案件だということがわかってきます。
最初は同情してくれていた人も、味方になってくれた人も、特別扱いをしてくれていた人も、
「あれ、なんかこの人おかしいな…?」
と必ず気が付きます。
そして、
…かまってほしくて不幸をアピールしてるのかな…?
そう思われたら、それまで築けた関係はあっという間におしまいとなります。
中には「ねえ、可哀想アピールして楽しい?」なんて言う人もいるかもしれませんが、
だいたい、距離を置かれてしまったり、離れて行ってしまうことになりますので、本人はなぜ自分が悪かったのか、よくわかっていません。
…何かまずいことをしたみたいだけど、何が悪かったんだろう?
なんて思っているのです。
それからも、どうも人間関係がうまくいかない。
なので、自己啓発本を読んだり、人の振り見て我が振り直せ…みたいなことを試みたりしてきましたが、まさか自分がそんな特性を持っているとは気づきませんでした。
今も、正確に把握しきれているかはどうかはわかりませんが、そう考えると今まで違和感を覚えていたことがしっくりきます。
◆「不幸感情盛上げ隊」を設定したきっかけ
そこで、私の中には「幸せ」になるべく、「成長」や「成功」に向かって生きていこうとしている個人の人格と、
私を不幸にして、「同情」「味方」「特別扱い」を得ようとする「不幸感情盛上げ隊」という集団が存在する。
そう設定することにしました。
もちろんこれは、確かめていくうちに、違うかも…となるかもしれない。仮説のようなものではあるのですが…
あまりにも自分の中で、「幸せ」を追っている一方で「不幸せになること」に執着している矛盾があることと、
常日頃から、私はものごとに対してパニックになりやすく、トラブルに対しての解決力や学習能力が他人よりはるかに劣っていることが気になっていたことがあり。
もしかしたら、これらは関係があるのかもしれないと思えたもので…
私の中には、「私」と「不幸感情盛上げ隊」がいる。
そう設定して、この連載をやっていこうと思います。
2024年1月3日(水)17:22更新
2023年12月26日(火)18:39